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【第5弾その①】7年ぶりの故郷へ ★☆★K山先生実家を訪ねる編&高校時代の思い出★☆★

▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽7年ぶりの故郷へ▼▽▼▽▼▽▼▽▼▽▼
同窓会、そしてかけがえのない恩師の仏前へ

 

K先生実家を訪ねる編・・・

大月町道の駅に置いていたレンタカーに乗り換え、H子とお別れ。
まだ日が浅いので、明日行く予定だったK先生のご自宅へ電話すると、今からでも良いとの返事を頂きました。
ただ何度も「道が大変やから来んでもええで!」と言われました。

 


先生の家は、先ほどの大月町から約1時間半程、四万十川を北上した山の中にあります。

途中からの道はとても狭く、たどり着くまでに対向車とすれ違うために、3回バックしなければなりませんでした。

柏島はあんなに晴天で美しかったのに、四万十川は大荒れで濁流が凄かったです!

 

 

さて先生宅には1時間ほどで到着しました。道は狭いけど通行量が少ないので早かったです。

奥様が出してくれた抹茶ケーキとアイスコーヒー(高知ではレイコ)

 


 

流石に先生の仏壇や奥様の写メは撮るわけにはいかないので、これだけでご勘弁を。

 

K先生との高校時代の壮絶な思い出を理解してもらうのは難しいかもしれませんが、まとめましたのでお読みください。

 

高校時代の思い出・・・

 

 

夜中にヤ〇ザを連れて先生宅へ編・・・

 

 

まず、高校2年の夏休み直前、私がヤ〇ザと名乗る男二人を連れて、教員住宅の先生宅を訪ねたのが、朝方の4時過ぎ。

チャイムを押して出てきた奥様は、ドアの隙間から恐る恐るこちらを見ました。そして直ぐにドアを閉めたのです。

そりゃそうです、今にも大声で怒鳴りそうな輩が私の後ろに二人もいるのですから。

 

 

事のあらましを説明します。

 

 

私は下宿生活をしていました。そこに一学年上のYがいました。そのYは昇級できずに私と同じ学年になってしまったのです。一応、田舎ではありますが近隣では一番の進学高校でしたから、半分は自宅から通い、残りの半分が寮生、半分が下宿生という環境でした。

 

そのYは、なんと高校生のくせにアル中なんです。

 

その日も「中にい、Yがスナックで酔い潰れておるけん、お前迎えに行っちゃってくれんか」と頼まれてしまったのです。

仕方なく迎えに行き、肩を貸しながら下宿に帰っていると、車が凄いクラクションを鳴らしながら我々を追い越したのです。

 

それにムカっと来たYは大声で「うるさい!このボケが!!」と怒鳴ってしまったのです。

車は急ブレーキをかけバックしてきました。

そしてヤ〇ザと名乗る男二人が降りてきたのです。

 

 

私はなぜかYに呆れるばかりで、降りてきた二人に恐怖感を感じませんでした。

男たち二人は、まだ怒鳴り散らしているYに向かって、これまた怒鳴りながら胸ぐらを掴んでぶん殴りました。

 

私は「あ〜あ、だから言わんこっちゃない」ってな感じでした。

 

しかし、図にのった男たちは、ベロベロのYは反撃もできないのに、さらに手を出したのです。

 

 

それを見て私が「お前ら、酔っ払いに対して何をしゆら!?」と怒鳴って、相手に体当たりをしたのです。

 

そこで二人は私にも手を出してきたので、殴り合いになりました。

どれだけやり合ったかわかりません。私は軽傷でした。相手も大した怪我はしてません。

流石に高校生相手に二人がかりでボコるのは気が引けたのかもしれません。

 

 

そして突然「まあこれくらいでええわ! お前は根性あるのう」と言ってきました。

 

 

気が立っているので褒められたとは思わず「なんな、うっせえわ!」

 

 

「わかったわかった、おい、お前はもう帰ってええぞ」と最初から倒れ込んだままのYに言いました。Yは情けなくもヨタヨタと立ち上がり、何かブツブツいいながら帰っていきました。

 

 

もちろん、私も彼の後を追って帰ろうとしました。ところが・・・

 

 

 

「お前は帰っちゃならん!」

「なしで?」

「お前は気に入った」

「は?」

「気に入ったけん、お前の担任に会いに行こう」

「は? な、なんでやねん?

 

 

全く意味がわかりませんが、何故か担任に会いたいと譲りません。

しかし、その時の担任は英語のO先生だったのです。そりゃもう、ナヨナヨとした頼り甲斐ゼロでした。*故人になられております恩師に対して申し訳ありません。

こんな奴らを連れて行ったら、O先生、見た瞬間に心臓麻痺で死んでしまうと、直感しました。

ですから断ったんですが、そりゃもうしつこく「どうしても先生に会いたい!」とばかり言ってきます。今思えば彼たちも酒が入っていたのでしょう、夜中ですからね。

 

 

私は諦めて一年の担任だったK先生の宿舎に行きました。K先生は柔道部の顧問で、中村警察で柔道を教えているほどの方でしたから、先生ならなんとかしてくれると思ったのです。

 

 

高校2年にしてヤ〇ザと名乗る二人と喧嘩をして、さらにこの機転、今思い出しても我ながらに感心しました。自画自賛「エヘンオホン」(^_^)v

 

 

さて、話を元に戻しましょう。チャイムを鳴らして、しばらくして出てきた奥様は、ドアの隙間から恐る恐るこちらを見ました。そして直ぐ にドアを閉めた奥様は、先生に「中野君が変な男たちを連れて来ちゅうがやけんど・・・」

普通なら「母さん、直ぐに警察へ連絡しなさい」と言うところですよね。

しかし先生はドアを開けると「どうぞ中へ」と招き入れたのです。

 

 

先生がドアを開けた時、こいつらは大声を出しそうになりました。しかし直ぐに先生が手招きをしたので、その言葉を飲み込んだのです。いや、招き入れようとしたことにびっくりしたのでした!

 

 

先生は真夜中に教員宿舎の前で大騒ぎをすることを避けたのです。当然パトカーが来たら、そりゃあ大騒ぎとなり、原因を作った私は再度の停学(定額最短記録編で説明します)、最悪の場合退学になりかねません。

 

 

先生の度量の大きさを先ずは見せてもらいました。

 

家に招き入れても、こいつらの興奮は冷めず「よう、先生よ!」と大声を出しかけた時、

直ぐに先生は機先を制するように「まあ、とにかく一杯やりましょう、母さん酒!」奥様はすでにビールの栓を抜いてコップを用意していました。

 

 

直ぐに先生はこいつらにコップを渡し、「まあ飲んで飲んで」と笑顔で振り向いたのです。

「おい、中野! お前は飲んだらいかんぞ」

とコップを差し出した私を笑顔で睨み飛ばしました。

仕方なく奥様が入れてくれたお茶で我慢です。

 

 

男たちは、私も歩いている間や玄関で待っている間に気づきましたが、ヤ〇ザではなく鳶職でした。

どちらにしも気が荒いし、腕力があるだけヤクザよりタチが悪かったかもしれません。

先生の凄いのは、こんな夜中に訪ねてきた(押し込んできた)輩に対して、理由は一切聞かず、終始にこやかに話をしたことです。

 

 

男達は酔ったことと、先生の無言の圧力を感じたのか音量を下げて喋り始めました。

「先生、こいつは見どころがあるけん、気に入った」と私の肩を抱こうとするので、「やかましいわ!」と払い除けたのを覚えています。

 

 

流石に明け方の酒ですから二人は寝落ちしてしまいました。

 

 

先生は二人をそのまま寝かしつけ、私に「お前は気をつけて帰れよ」と帰してくれました。先生の宿舎から15分も歩けば私の下宿であることを知っていましたし、こいつらが目を覚ました時に私がいない方が良いと思ってのことでしょう。

 

そして2016年の同窓会に30年ぶりに出席した時の事です。

 

 

幹事のNは私達が生まれた時からの同級生で、K先生との壮絶なやり取りも知っていた(そうそうその時の下宿も同じでした)Nだったので、先生と私を隣同士にしてくれたのです。

 

もう先生の顔を見た時から涙が溢れてきます。先生には数年前に私がテレビで解説や出演している番組をまとめたビデオを送っていたのです。

 

高知から「中野、偉あなったな!」と電話を頂きました。

 

そして今夜も「中野、偉あなったな!」と全く同じ言葉で迎えてくれたのです。

 

当然、この訳のわからない夜中の事件についても話が出て来ました。

「教員生活の中でも、一番忘れられん事件やったな〜!」と思いっきり笑いながら。

そして、その時に先生から聞いた今まで知らなかった裏話に、もう涙が溢れ止まりませんでした _

 

 

「あの時よ、母さんがドアを開けてから閉めたろ」

 

 

ああ、あの隙間から怯えたような目で我々を見ていた時だ。

 

 

「ほいでよ、母さんに、『直ぐにサラシ出してくれ』と頼んだがよ」

と、笑いながら言います。

 

しかしそれを聞いた私は、そのことを全く知らなかったので、驚くと共に先生の度量と覚悟の大きさに胸を打たれ、言葉を発することが出来ませんでした。

 

「サラシを巻いてから、お前らを中に入れたがぜ」

もう言葉も出ませんが、涙は止まることがありません。

本当に先生には感謝以外の言葉がありません。しこたま飲んで、他の思い出も一杯語り合ってお別れをしました。

「先生、本日は有難うございました、次にお会いする日まで元気でいちょって下さい」

「おおわかった、お前もな!」

 

 

これが先生との最後の出会いとなりました。

 

 

2023年春、先生は永眠されました。

 

 

お葬式に献花を贈り、7月に同窓会で帰った時にお墓とお仏壇に線香をあげさせて貰いたいと、奥様に電話した時「あら中野君、元気やった?」

 

献花を贈っていたので名前を覚えてもらっていてもおかしくはなかったのですが、「よいよ、高校の時のあの事は忘れられんでね」と話し出されたのです。

 

たった2時間ばかりとは言え、夜中にヤ〇ザ(と名乗る鳶職人)二人を連れて行ったのは、先生は無論のこと、奥様にも強烈な印象を残していたのです。

 

お墓の場所をお聞きし、ご自宅にはお歳暮としてマンゴーを送りました。

 

そして東京を発つ前に、もしかして娘さんのところに行って留守にしているかもしれないと言われていたので、確認の電話をしていました。

 

やっと念願叶って、四万十川の上流、江川崎という町にやって来ました。

 

さてさて、思い出話が長くなりましたが、奥様は思いの外お元気で、膝が痛いというのを除けば、全然お元気でした。

やはり教え子がちょいちょいやって来て昔話をするとのことです。

 

それでも「やっぱり長い教員生活で、あればあ怖いと思ったことはなかったで」と言われ、本当に恐縮をした次第です。

 

 

 

・・・・・つづく

※次回は★☆★四万十市飲み屋編★☆★

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