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皆さんはこの写真をご存知ですか?

ナパーム弾の少女・・・

1972年6月8日、南ベトナム郊外の街「トランバン」にて撮られたこの写真。

私は非常に大きな衝撃を覚えています。多くの方が目にしていることでしょう。

*トランバン サイゴン(現ホーチミン市)の北西48kmに位置する村

泣き叫びながら逃げ惑おう子供達を取り囲む冷静な米軍兵士とのギャップが、戦争の悲惨さをより際立てていると、言われています。

南ベトナム軍と多くの人々がトランバンの寺院にひっそりと隠れていました。

その時南ベトナム軍の爆撃機が近づいてきました。その音に気づいた軍隊が外へ逃げるように言いました。

不幸にもその逃げ出した軍人を見て敵だと思った爆撃機は、寺院の上にナパーム弾を投下したのです。

 

人々を一瞬にして地獄に落とした爆弾は、ナフサにナパームと呼ばれる増粘剤を添加し、アルミニウムをゲル化して搭載した「ナパーム弾」でした。

高温で焼け広がる爆弾によって服は焼け落ち、皮膚は焼け爛れ、泣き叫びながら逃げ惑う9歳の少女「ファン・ティ・キムフック」でした。

 

この写真は翌1973年ピュリッツァー賞を受賞するなど、世界に大きな衝撃を与えました。

そして反戦運動を大きくさせることにも役立てられました。


冷静に写真を撮る米軍兵の姿が、ある意味この戦争の中のアメリカの立ち位置を教えてくれています。


教会からフック達と一緒に逃げ延びようとする親子(孫?)。

果たしてこの赤ちゃんはまだ生きているのでしょうか?

AP通信カメラマン、ニック・ウト氏


ウト氏との出会い・・・

この写真を撮った彼はこの後、カメラを置き、すぐにフックに水を与え体に水をかけました。

そしてフックを病院に連れて行きました。

 

しかし最初の病院では火傷に対する処置ができず、この病院では「死ぬのを待つより他はない」と言われ、より大きな病院に移送しました。

そこでも多くの患者が治療を待っていました。

 

ウト氏は強く先生に頼み込んで治療をしてもらいました。

*正確には「この子達が死んでしまうと、あなた達は苦境に立たされることになる」と脅した?のです。

 

それが戦争を早期に終わらせるアメリカ軍の撤退に繋がったのは、神の教示があったからかもしれません。

 

*全ての写真は先日NHK・BSで放送された画面からです。

 

私は彼女がその後一体どうなったのか、全く知りませんでした。

偶然見た番組で驚き、慌てて写メを撮った次第です。

 

戦争の是非論やベトナム戦争について語るのはやめておきます。

 

私がブログに書き留めておきたかったのは、その後の彼女のことなのです。

 

 

 

一命を取り留めたフックは、何度も焼けた皮膚を剥がす治療を受け、その度に死んだ方がマシと思ったと言うほど、辛い治療だったと言います。

そして14ヶ月の辛い治療を終え退院しましたが、自分の情けない姿が公になっていることをとても恥ずかしく、ウト氏を恨んだとも言います。


成長したフックですが、女性としては大変な傷が残ってしまいました。

しかし、それを気に留めない最愛の夫に出逢います。

そして二人の子供を授かることが出来たのです。

フックは次第にウト氏について感謝の気持ちを持つようになり、今では「ウトおじさん」と呼ぶほど、慣れ親しんでいます。


仲睦まじくじゃれ合う二人


しかし、医者を目指していた彼女を、ベトナムの共産主義政府がプロバガンダに利用するために医学部を追い出したのです。

 

 

カナダへの亡命・・・

フックの意思に反し、フックはとても人気が高く各国に呼ばれます。

1992年、オーストラリアに行った後にカナダにより、そのまま政治亡命が認められカナダ国籍を取得しました。

さらに、カナダ・ヨーク大学名誉法学博士も取得しました。

 

その後、戦争で犠牲になった子供達を支援する「慈善団体キム財団を設立」、「97年にはユネスコ親善大使」に任命されました。

ユネスコ親善大使に任命された任命式の模様

フックとウト氏は2022年5月、ローマ教皇庁(バチカン)のサンペトロ広場にて、フランシスコ教皇に「ナパーム弾の少女」の写真のコピーを贈呈しました。



あの悪夢から、50年でこの笑顔を二人から見られるとは誰が想像したことでしょう。

戦争のない、真の世界平和を願わずにはいられません。

 

最後に、アメリカ政府は、「ベトナム戦争に負けたのは、この写真のせいだ」と判断した。そしてこの後、戦場へのカメラマンが同行することを禁じた。

 

 

 

 

参考資料

NHK・BS

最後の写真 CNN

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